2019/02/26

感謝

 

 

今日は2019年2月26日。

 

 

 

2018年2月26日から1年経ち、会長の喪が明けました。

 

 

久々ブログを更新します。

 

 

 

この1年間あっという間だった気もするし、長かったような気もするし。

 

 

対外的に多くを発信することは自粛して控えてきました。

 

 

私自身この1年で様々なことがありました。

 

 

昨年末には、母も父を追いかけてあの世へ旅立ち、1年の間に両親が共に亡くなってしまいました。

 

 

 

 

週末に父の1周忌法要と母の49日法要を一緒に済ませました。

 

 

母の両親、私にとって祖父母になりますが、二人はさらに亡くなるタイミングが近く、1カ月以内に共に亡くなり、あの時もバタついた覚えがあります。

 

 

まさか、自分の親でも同じようなことが起こるとは考えてもみませんでした。

 

 

人生何が起こるか本当にわからないものです。

 

 

未だポッカリと大きなパーツを失った感覚に慣れず、相続の件などもあり、もろもろと面倒な手続きにバタバタと追われております。

 

 

 

 

私自身を振り返っても、自分の子供たちを見ていてもわかりますが、親の存在が自身のあり方に大きく影響しています。

 

 

親から褒められることや叱られることで根本的な生き方の指標がそのまま親の生き方や価値観に影響されます。

 

 

だから、自分自身が親として子供たちに対してどう向き合い、接して育てていくか、常に考えさせられます。

 

 

もちろん私自身も親に大きく影響を受けているわけであり、その存在を失うというのは、これから嘗てない環境を経験するということなので、少なからず不安もあります。

 

 

いつも一緒にいて生活しているわけではなくても精神的な要素として親の影響は大きなものです。

 

 

たとえ私が年老いて死の直前になろうと、私の中に根付いている親の影響の大きさは変わらないでしょう。

 

 

いや、もしかしたら逆に増して行くのかもしれません。

 

 

 

 

人はどのタイミングで死ぬのか、どんなかたちで死ぬのか、健康な状態や当たり前だと思っている環境の中ではあまり考えることはないでしょう。

 

 

いつか死ぬことは理解していても、それに対応しようと心構えを持ってみても、やはり、いざ実際にその時が来れば、様々な考えや感情が湧き出てきます。

 

 

月並みですが、無くしてからわかることは山のようにあります。

 

 

それでは遅いこともやはりたくさんあります。

 

 

後で後悔しないためにも、今目の前にある存在や環境にいかに気づくことができるか。

 

 

当たり前だと思わない。

 

 

 

 

これまた月並みではありますが、みなさんのまわりにいる人たちに「感謝」して大事にしてあげてほしいなと思います。

 

 

「当たり前」という言葉は麻酔の様なものです。

 

 

鈍感になって様々なことがわからなくなる前に「感謝」することを癖にしたいものですね。

 

 

 

 

 

Category: テキトー放談